打ち寄せる赤いLCLの湖畔。
惣流・アスカ・ラングレーの首を、泣きながら締めていた碇シンジはふと顔を上げた。
「・・・・・?・・・・・・」
アスカは首を締める力が緩んだ事よりも、シンジの雰囲気が変化した事に気が付いて訝しく思った。
キョロキョロ辺りを見回すシンジ。
眉間に皺を寄せて、じっくり観察してから彼は自分が馬乗りになっている美しい少女に眼をやるのであった。
そして、一言。
「あんた、誰?」
それは、別の世界でシンジが呆然と駅前にて立ち尽くす時間と同時刻であったのである。
数瞬の後、砂浜は闘いのワンダーランドと化していた。
シンジを跳ね飛ばして起きあがったアスカは、本気でシンジに向かって殴る蹴るの攻撃を仕掛けまくった。
が、シンジはアスカの本気の攻撃を(あのアスカの)、軽やかなステップでかわしている(足が取られやすい砂浜でだ)。
シンジは不思議そうな顔付きで避けている。
やがて、くたびれたのであろうアスカはへたりこんで荒い息をついていた。
「なあ、俺は碇シンジっていうんだけどさ、この状況説明出来るかな?」
シンジは息ひとつ切らさずに言った。
「はあ、はあ・・・・・何言ってんのよ、あんたは?・・・・・・・」
アスカはジロリとシンジを睨み付ける。
「あんたみたいにかわいい娘に恨まれる覚えはないし、だいいち今いるここがどこかすら解らないから聞いているんだぜ。」
シンジらしからぬ不敵な物言い。
果たして、シンジはどうなったのであろうか?
リリスと化した綾波レイの呪いであろうか?
はたまた、極限状態に追い込まれて狂気の領域に足を踏み入れたのであろうか ?
「・・・・・あたしは、あんたが何でそんな事言い出すのか解らないわよ・・ ・・・・」
アスカはそう言い返した時、アスカのお腹がかわいらしく鳴いた。
真っ赤に燃え上がるアスカの顔。
笑いを堪えるのに必死のシンジ。
「・・・・・そうかい。・・・・・・今分かった事はただひとつ・・・・・腹が減ったって事なんだな・・・・・・よし、よし。」
シンジはアスカの腕を取り、よいしょとかけ声と共に彼女を背中に乗せる。
そして、黙って為すがままのアスカに言った。
「ちょっと待ってな。じきうまいもん喰わせてやるからな。現状解説はそれからだ。」
シンジはそう言って砂浜を、建物の残骸が微かに見えている方角に向かって歩き出したのであった。
「中華でいいか?」
シンジは背中に乗せたアスカに、そう尋ねた。
「・・・・・・・・・」
シンジに軽くあしらわれたのが相当口惜しかったのか、アスカは無言の行に突入している様子であった。
「比較的あそこの中華料理屋がまともそうだからな。材料も残っていそうだ。だがよ・・・・・・・・・・・返事くらいしねえと、喰わせねえぞ。中華でよかろう?」
穏やかではあるが、うむを言わさぬ口調で言うシンジ。
「・・・・うん・・・・・」
空腹には勝てない様子でアスカは渋々ながらも、おとなしく返事を返した。
「女の子は、素直なのが一番かわいいんだぞ。外見は一流なんだからよ、優しい心が出てくるようになりゃあもう最強になると思うぜ、俺は。」
シンジは辛くも倒壊を免れていた中華料理屋に踏み込んで、アスカを椅子に座らせて自分はテーブルを拭き準備に掛かる。
「ふふん・・・・・・材料は充分だな。」
電気がまだ来ていた様子の冷蔵庫を覗き込んで不敵に呟くシンジ。
その間、アスカは一生懸命思考を巡らせていた。
(シンジのようでシンジでない。確かにあたしの首を泣きながら締め上げていたのは、あたしが知っているシンジだった。なのに、こいつはシンジじゃない。シンジがこんなに自信に満ちあふれているはずがないのに・・・・・・・・。でも、シンジにそっくりの誰かに入れ替わるなんて出来る状況じゃなかったし・・・・・・・う〜む・・・・・)
そんなアスカをよそに、シンジはガス・テーブルに火を入れて中華鍋やら食材やらを準備にかかっている。
シンジもまた、行動とは別に思考している。
(なんで、こんないい女があんな訳わからねえ砂浜にいるのか?俺があんないい女殺そうとするなんて事はあり得ない話だし、ここはどこなんだよ大体?)
とりあえず、空腹に腹の虫を盛大に鳴らしているアスカのために、シンジは料理の腕を振るおうとしている。
と、その時シンジはテーブルからの視線に気が付いて顔をそっちに向けた。
アスカがジ〜〜〜ッとシンジを凝視している。
「くっくっく・・・・・そんな顔しなくても、ちゃんと作ってやるからよ。普通の顔してろよな、かわいい顔が台無しだぜ。」
不敵な笑みを浮かべながらアスカに言い放つシンジであるが、その口調はどことなく父親であるゲンドウ氏を思わせるのは気のせいか?
そうこうしている内に、鍋に火が入り食材が手際よく調理されていく。
海老のチリ・ソース煮
野菜をふんだんに使ったフカヒレ・スープ
水餃子と焼売
大皿に多めに盛られたチャーハン
ある材料を遠慮もなにもなしに使ったシンジの料理が、テーブルに並べられ湯気とともに良い香りを発散させる。
思考を海を漂っていたはずのアスカの意識は、既に思考から離れテーブルの上に集中されている。
アスカの前に取り皿を置きながら、シンジは言った。
「いいぞ、食え。」
普通ならばシンジにそんな口調で、ものを言われたら血管の二、三本は楽に切れそうなアスカではあるが、今は料理に気持ちが行っている。
皿とレンゲを手にしたアスカは、素直に言葉を発する。
「いただきま〜〜す。」
かぶりつくアスカ。それを半ば呆れた表情で見ながら食べるシンジ。
つつがなく食事は進み、終わった。
「で?ここはどこよ?」
食事を終えて、食後のウーロン茶なぞを啜りながらシンジは口を開いた。
アスカは思い出したようにシンジを睨み付けつつ、静かに言った。
「あんた、とぼけるのも大概にしなさいよね。おとなしいあたしでも怒るわよ。」
「はっっ、おとなしいと来たかい。いい根性してるねえ、面も好みだが性格も嫌いじゃないぜ。」
シンジは親譲りの、あのスマイルを浮かべながら言葉を続けた。
「俺が聞きたいのは、ここがどこかという事とあんたの名前だね。とりあえずな。」
アスカはジッと黙して語らず。
「やれやれ、だんまりかい・・・・・・・まあ、いい。俺は十年近く預けられていた親戚の所から、オヤジに呼ばれて第三新東京市って所に向かった。」
アスカが口を開く様子がないのを見て、シンジは勝手に語りだす。
「列車が急に止まってしまったんで、最寄りの駅に降りたんだが道路に足を着けたとたんに気が付けば極上の女にのっかって首を締めてる状況だったって訳よ。」
アスカいまだ語らず。
「オヤジの名は碇ゲンドウと言う。国際公務員らしいがどんな仕事をしてるのか、俺は知らない。地位的にはかなり偉いらしいがね。・・・・・・オヤジが俺を呼びつけた手紙、見てみるか?」
シンジはおかしそうにポケットから手紙の束を取り出してアスカの前に広げた。
「まず、これが最初のだ。」
便箋の中央に、「来い」の文字。
「次がこれ。」
「バイトに来い」の文字。
「そんで、これ。」
「美人揃いだ、来い」の文字。
「くっくっくっく・・・・」
「おまえ好みの娘もいるぞ、ショート・カットの華奢な娘だ。来い」の文字。
「最後がこれだ。」
「ドイツからもう一人追加するから、頼むから、来い」の文字。
「それで、ノコノコ来たって訳なのね。」
ようやくアスカは口を開いた。
「まあね。十年近く会ってもいないのに、俺の好みがどれだけ分かっているのか興味が湧いたのさ。」
シンジは口の前で手を組む、例のポーズを取りながら続けた。
「どうだ?しゃべる気になったか?」
「ふ〜ん、サード・インパクトねえ・・・・・・」
それがどうしたと言いたげな態度でアスカの話を聞いているシンジ。
アスカの話にしても、アスカ自身がくわしく理解している訳ではないので、おおよそこうだろうといった推測の域は出なかったのではあるが・・・・・・
「んじゃ、もしかすると生き残っている奴らもいるかもしれないんだな。」
「そうね。」
アスカはシンジの姿をした別の人間に、戸惑い、どう扱ったらいいのか困惑していた。
(シンジの姿なだけに、性格がここまで違うと扱いにくいったらありゃしないわ。あの手紙にしても、美人揃いってリツコにミサト、マヤの事でしょう。ショート・カットの華奢なのっていったら、ファーストしか居ないし・・・・・・ドイツから一人追加ってあたしの事なのははっきりしてる。あのヒゲオヤジ、あたしたち全員こいつにあてがうつもりだったのかしら?)
「おまえさんの話だと、俺がここに来る時期はとっくに過ぎているって訳だよな。」
「そうね。」
「時間を飛び越えたって事だ。」
「・・・・・・・・・」
「すんなり信じられる話じゃないが、廻りの状況を見れば信憑性もある。とりあえず、正否の論議はその辺に置いといて現実的行動に移る事にしようじゃないか。ん?」
「現実的行動って?」
「当面、生存のための生活基盤が必要だ。衣、食、住。三種の神器の確保が先決よ。分かるだろう。」
「う、うん・・・・・」
アスカはやはり慣れなかった。しっかりしたシンジに。
「一番最初はおまえの着るものだな。俺はそのままの方がいいんだがよ・・・・・その変な服、おまえ恥ずかしくないか?」
シンジはニヤニヤしながらアスカに言った。
言われてみれば、プラグ・スーツは身体のラインがハッキリクッキリ出る代物だ。
今まではシンジもレイも同じモノを身に纏っていた訳で、なにも恥ずかしくなる事も無かったが、眼の前にいるシンジはシンジのようでシンジでない。
そいつに言われて、自分が裸同然の格好をしている事に気が付くアスカだった。
怒りと恥ずかしさに、膝を両腕で抱え込み丸くなってしまっている。
「今頃気が付いたのか?黙ってりゃよかったな。」
シンジは笑いながら立ち上がり、料理屋から出ていった。
しばらくして、シンジは両手に女性向けの服を抱えて戻ってきた。
「サイズも好みも判らないからな、適当にもってきたぞ。自分で選んで着替えろ。」
丸まったままのアスカの頭の上に服を乗せた。
「おまえさんは、かわいいし、スタイルも抜群だ。俺としてはマジでそのままの方がよかったんだがね。」
スタスタ再び外に出ていった。
「優しいんだか、優しくないんだかわかんない奴ね・・・・・・・」
アスカは呟きながら、頭に乗った服を並べて選択にはいった。
「ふむ、ふむ・・・・やっぱりあいつはシンジじゃないわね。あいつにこんなセンスないもん。」
アスカは、シンジが持ってきた服を並べて見回し、選択した。
「これがいいな。」
手に取り、身体に合わせるアスカ。かつて、シンジと初めて会った船上で着ていたワンピースを彷彿とさせるクリームイエローのタイト・ミニだ。
と、その時気が付いた。
(下着が無いわ・・・・・)
入り口の扉の隙間から、外を覗き見る。
シンジはちょっと離れた電気店でなにやら物色していた。
「ふ〜む。わざと持って来なかったんじゃなさそうね・・・・・・でも、いくらなんでもノーパン、ノーブラじゃこれは着れないわ・・・・・・」
しばし考えるアスカ。
「やっぱ、あいつに持って来させる訳にはいかないわね。仕方ない・・・・・」
アスカは選んだ服を手にして外へ出る。
シンジのいる電気店の中に、大声で声を掛けた。
「足りないモノがあるから探してくるからね。ここに居なさいよっ・・・・・」
「足りない?女は面倒だな・・・・・」
言っている内容は身も蓋もないが、口調はどこかしら優しいシンジの返事だった。
「すぐ戻るから・・・・・」
「おう、気を付けて行ってきな。」
アスカはそう言って店を探す。
上手い具合にランジェリー・ショップを発見し、店内に潜り込んだ。
乱雑に荒れた店内を見回し、目的を発見する。
「ああ、あったあった。サイズはっと・・・・・・・あら、これデザインいいわね・・・・・・これは?ミサトやリツコじゃないんだから、こんなの穿けないなあ・・・・・・このあたりはサイズもあるし、多めに持っていこ。」
アスカは手早く下着を身につけて選んだ服を着る。
そしてそこらにあった紙袋に、かなりの下着類を詰め込んで中華料理屋に戻った。
「待たせたわね。」
「本部に戻ってみる?本部ってのはネルフとやらの本部の事か?」
シンジはアスカと肩を並べて歩きながら言った。
「うん。もしかして誰かしら居るかもしれないし・・・・・・」
「どこにあんだよ、その本部は?」
「え〜と、ああ、あの三角の建物がそうよ。」
アスカが指さす方向、かなり離れた距離ではあるが三角形のピラミッド型の建物が見える。
「かなりあるな。」
二人の現在位置は、ネルフ本部の建物を湖を挟んでかなり離れている。
「ん〜、そうねえ。でもおぶっていけなんて言わないわよ。」
「あほう。頼まれてもそんな事するか。その辺の街角で車でもあるだろう。ちょっと拝借する事にしよう。」
シンジは素早く車を物色すると、慣れた手際でロックを開きエンジンを直結させる。
「おう、掛かった掛かった。」
「慣れてるわねえ・・・」
アスカは驚嘆の声。
「へへへ、押借り強請りゃあ習おうより、慣れた時代の源氏店ってな。」
「何?それ。」
「歌舞伎の「切られ与三」って知らねえのか?」
「歌舞伎は聞いた事はあるけど、演目までは・・・・・・・」
シンジはアスカを横に乗せて発車させながら、
「春日八郎の「お富さん」は?」
「ぜっんぜん知らない。」
「粋じゃねえなあ・・・・・当然「暫」や「勧進帳」、「忠臣蔵」なんか知らないんだろなあ。」
「だってあたしはドイツで育ったんだから、歌舞伎を知ってるだけでも大したもんだと思うけどな。」
「そりゃそうだ。まあ俺もよく爺くさいって言われたからな。」
そうしてシンジはアクセルを踏み込み、ノーズを本部に向けて走りだしたのであった。
「ア〜スカちゃ〜ん。だ〜れかいた〜?」
「ルパン三世じゃないんだからさあ、アの所変な調子で伸ばさないでほしいなあ・・・・・」
彼らは休憩所にて、缶コーヒーを啜りながら座っている。
かなりの時間を掛け、本部施設を見て回ったのであるが誰一人として生存者の姿を見つける事は出来なかった。
「はあ〜・・・みんなどっか避難してるのかなあ・・・・・」
ため息と共にアスカが言った。
「ま、よくわかんねえが、避難する時の乱雑さが無いような雰囲気だったなあ。こう、消えたって感じかな・・・・」
「よしてよ・・・・縁起でもない・・・・・」
シンジの言葉にアスカは否定したが、心の中ではその可能性も考えている。
「おれたちが上でいたんだから、まだ上にいた方が見つかる可能性が高そうだな。こんな穴蔵にいるよりゃあよ、上探した方がいいだろ。」
シンジはアスカの手を取りながら促した。
「そうね・・・・・」
気落ちした様子のアスカは力無く立ち上がると、シンジと共に休憩所を後にするのだった。
「寂しいんだろ?」
歩きながらシンジは言った。
「・・・・・・・・・」
無言で前を見ているアスカ。
「おまえはさ、おれと同じだな・・・・・」
歩きながら、シンジの顔を視線を移すアスカは見た。いつもの自信に溢れた顔ではなく憂いを帯びた寂しそうな表情を。
「人と触れ合いたいと思っていながら、つい自分を守るトゲを出してしまう・・・・・いいんだぜ、泣いてもよ。いまんとこおれしかここにはいないんだ、気にすることはない。黙っててやるからよ・・・・・・・」
シンジはヒョイッとアスカの頭を片手で抱え、優しく撫でるのだった。
「おまえはいい娘だよ。おれにはそれだけは絶対の自信を持って言えるぞ。おまえはいい娘だ、絶対にな。・・・・だから、無理しなくてもいいんだぞ。」
「うっ・・・・ううっ・・・・・くっ・・・・・・」
アスカはシンジに撫でられた格好のまま、嗚咽を洩らし始める。
シンジにほとんど抱えられたまま、アスカは本部跡を去っていくのであった。
それから一ヶ月後。
本部施設にほど近い湖畔に建てられたログハウス風の建物。
シンジが適当に集めた材料を使って組み上げたモノであった。
そのお陰でアスカは、いささか野性的ではあるが人並みの生活を送れるような環境に戻る事が出来ていたのだった。
いまだに赤い湖面に場違いなほど爽やかな風が吹く。
アスカの金色の髪を風は後ろにそよがせていた。
(こうしてここで待ち続けて一ヶ月か。でも、あたしは感じてる。きっと誰かが戻ってくる、そんな予感がするのよ。)
シンジは自作ログハウスを、更に大きくして部屋数を増やす作業に没頭している。
彼もまたアスカが信じる、誰かが戻ってくる事を信じていたのだった。アスカへの同情ではなく、彼自身それを望んでいたのであろう。
ネルフ本部探索の夜、シンジとアスカは寝床を共にした。
だが、シンジはアスカを優しく抱きしめ寝付かせただけであった。
彼にはひとつの確固たるポリシーがあった。どんな時でもどんな状況でも破られざるプライド。
それは、嫌がる女ややけくそで自暴自棄になっている女は抱かない。それが彼自身が己に課したルールであった。
シンジは思う。
(あの娘はまだ頼っている。頼る事なく自分の足で地に立って歩くには、なにかのきっかけが必要だ。あの赤い湖から誰かが戻る事がそのきっかけになるのなら、おれはいくらでも付き合ってやるさ。いつまでも一緒に待っててやる・・・・・乗りかかった船?いや、惚れたのかもしれんな、おれとした事が・・・・)
シンジは苦笑しつつ、アスカを大声で呼んだ。
「お〜い、アスカ〜。めしにするぞ〜、手伝え〜」
シンジの声に、アスカは美しい笑顔で答えた。
「は〜い、今行きま〜す。」
砂浜を駆け出すアスカ。
彼らを見知った者が、戻って来たならば驚きと共に優しい微笑みを浮かべるだろう。
今まで見せた事のない、幸せそうな笑顔を浮かべている二人を見れば・・・・・・・・